「形のない、あっても気がつかない、
水や空気に近い世界」

古川 三盛(ふるかわ・みつもり)

略歴:1943年、福岡県北九州市に生まれる。作庭家。北九州市・菅原清風園、京都・徳村造園に勤務ののち、1970年に独立。主に森蘊の作庭に従事。主な著書に『庭の憂』〔善本社、1997〕のほか、雑誌「庭」「銀華」「チルチンびと」など連載多数。
場所:郡山市矢田町 矢田寺大門坊露地|日時:2017年10月4日
場所:大阪府河内長野市神ガ丘 延命寺|日時:2017年10月20日

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矢田寺大門坊露地(特別公開)

昭和43年(1968)に矢田寺大門坊の東側に新しい茶室ができ、翌年の1月から露地の工事が始まった。
森蘊が64歳の時で、新たな挑戦となった。それまで、森は庭をつくる前に必ずと言っていいほど実測図と設計図を描いていたのだが、矢田寺ではスケッチもせず、直接施工に取りかかったという。
露地の約束事にしたがって、茶室のまわりに飛石を巡らし、南側に蹲踞を配置するが、茶室に腰を下ろすと、このような役石などは一切視界に入らず、遥か遠くに広がる奈良盆地と山並みにうっとり見とれてしまう。
絶景を際立たせているのは、手前の狭い庭である。白砂と苔の中から5個の小さな石がちらっとはみ出ているだけ。前景が目立たないからこそ、借景の奈良盆地まで手が届きそうだが、実は生け垣きのすぐ後は急な崖になっている。地形と眺望を見事に活かした庭である。
矢田寺大門坊露地の維持管理は現在、古川三盛がされている。大門坊が建て替えられた際に一部を改修したが、茶室周りには手を加えていないという。また、1970年に小山潔と共に、境内の南に流れるせせらぎの周りにアジサイ園を作った。現在、矢田寺大門坊露地は6月中旬、アジサイの開花に合わせて、茶席として特別公開されている。

森蘊の一言

「庭園文化研究所の研究員小山潔君が中心となり、西本造園の雅和君、古川三盛君、山中功君らが協力し約二ヵ月かかって完成した。(中略) それほど経験の多くない若い人たちだけの集合でも、お互いにくふうし合い助け合えば、これだけの好結果が生まれるものであることを証明してくれたのを嬉しく思っている。」 森蘊『庭ひとすじ』学生社1973(203頁)

延命寺庭園(玄関付近の前庭のみ一般公開)

延命寺庭園の作庭に関して、森蘊は特に記録を残していないので不明な点が多いが、延命寺に保管されている図面を手がかりに、その経緯を窺うことができる。
2012年に行なった調査の結果、延命寺に森蘊の筆による図面が5枚見つかった。「延命寺庭園計画図」「延命寺庭園基本計画図」「延命寺庭園景観図」「延命寺庭園改造計画図(平面図)」「延命寺庭園改造計画図(景観図)」とある。いずれも「延命寺庭園」と題するが、一枚目の「延命寺庭園計画図」は本堂の北庭を描くのに対して、その他の図面4枚は本堂の西庭を描写している。つまり、森はそれぞれの庭に名前をつけずに作庭作業をされたということがわかる。
一番古い図面は本堂の北庭で1967年2月日付である。本堂からではなく、その北に位置する座敷から鑑賞するように構成された細長い平庭である。苔の中に約20個の小さな石が点在するシンプルな構成である。本堂との境目にサンゴジュの生垣があり、ところどころにモミジが自由に枝を伸ばしている。図面に描かれている竹垣はなくなったが、それ以外はほとんど図面のとおりで、作庭当初の姿を保っていると思われる。
本堂の西庭に関する図面が4枚残っている。特別に広い庭ではないが、1969年に焼失した本堂の再建に合わせて森蘊が改造をしたから、第1期と第2期の図面がある。初期の西庭の図面は1968年2月と3月の日付であり、後期の西庭の図面は1973年4月14日付である。全体の構成は似ているが、1968年の「基本計画図」によると初期の西庭は砂利敷きの流れであったのに対して、1973年の「改造計画図」によると後期の西庭は池庭であったようである。
古川三盛は10年以上前から延命寺庭園の維持管理をしており、2度にわたって改修を行なったという。最初は水源が枯れた際に、古川は池底にごろた石を敷きなおした。また、2013年に新しく作られた客殿に合わせて手直した。その結果、西庭は少し小さくなったが、主景となる枯池は変わっていない。
さらに、延命寺には玄関付近の前庭があるが、それに関しては図面や記録などは残っていない。本堂周辺の庭とはまた異なった石材を利用しているので、1973年以降に作られたとも考えられる。

上田霊城住職の一言

「仕事をされる時も、森先生はベラベラお話をしませんでした。しかし、縁側から立ち上がってくる時に手をこすって「楽しかった!」と、小さな声でつぶやいていました。」(2013年、筆者によるインタビュー)