「万人の拍手は要らない、
理解する少数の拍手でいいんだと」

牧岡 一生(まきおか・かずお)

略歴:1945年、福井県に生まれる。造園家、庭師。1970年に近畿大学卒業し、1975年より12年間、作業部隊の一人として森蘊に師事。1980年に森蘊と小山潔と一緒にドイツに渡り、フランクフルトのバルメンガルテン日本庭園展に参加して以来、ドイツ、イタリア、フィンランドなどヨロッパと日本で庭づくりを行なう。現在は国指定名勝の依水園や法華寺庭園の維持管理など、奈良を中心に活躍している。
場所:橿原市 橿原神宮文華殿|日時:2017年10月26日
場所:奈良市六条1丁目 森蘊庭園研究室(旧宅)|日時:2017年10月26日

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リンク(庭舎MAKIOKA):http://www.teishamakioka.com/

橿原市 橿原神宮文華殿庭園(特別公開)

橿原神宮文華殿という建物は旧柳本藩の表向御殿である。1967年に現地に移築されてから、国の重要文化財に指定された。庭園は移築の5年後、1973年に森蘊によって作られた。この敷地はもともと、樹林の苗を育てる場所であり、多くの木々が生い茂っていたので、森はまず間伐を行なった。
文華殿は文化的・芸能的な集会所として利用される予定だったということで、森は多くの人に利用されやすい、開放的で明るい庭を試みた。文華殿庭園は大別して、玄関の前庭と、書院南庭と、書院西庭の3区域からなる。玄関の前庭は車が出入りできるように砂利敷きとし、南側の樹林の中に小柄の捨石を配置した。その玄関の前庭と書院南庭は穂垣によって区切られている。
書院南庭の中央には野筋を作り、大振りの石2つと小ぶりの石4つを据えた。書院の手前には雲に聳える深山をイメージして、縁石で雲形模様を描いた。珍しいデザインであるが、同じような模様は薬師寺の唐院庭園にも見られる。築山周辺には苔、書院前には芝生を敷いた。また、南側の樹林の中に遠路を設けることによって、外から文化財の建物を鑑賞できるようにした。つまり、文華殿庭園は建物の中に座りながら鑑賞することもできれば、樹林の中の遠路を歩きながら楽しむことも可能である。
書院西庭には、元からあったシャクナゲや枝垂れ桜を切石で取り囲み、花壇を設けた。また、建物沿いには南北に一直線に並ぶ飛石を打ち、社務所に繋がる西門(伊賀上野市の藤堂家より移築)に向かって飛石道と延段を作った。飛石には自然石、延段には切石を利用した。こうして、芝生と苔の使い方や、一直線に並ぶ飛石などは桂離宮の新御殿前を彷彿させる意匠である。
当初は徳村造園が施工を担当したが、作られた後は何度か改造されたと思われる。その経緯はあきらかではないが、2015年4月から1年をかけて、牧岡一生が復元整備の工事を指導した。玄関の前庭と書院南庭、または書院西庭で一直線に並ぶ飛石などは作庭時の資料などを参考に復元されたが、書院西庭の花壇の原型を知る術がなかったので、後に作られた枯流はそのまま保存することになった。こうして、40数年間で庭園の形は変わったが、牧岡の復元整備工事によって、森が描いたイメージを再現することができた。

参考文献

森蘊『庭ひとすじ』学生者 1973年
牧岡一生「橿原神宮文華殿庭園 復元整備の概要」森蘊庭園研究室 2016年

森蘊の一言

「(前略)奈良県文化財保存課を通じて、写真撮影しやすいように建物の南に立ちふさがる樹木を伐りすかし、庭園も造ってみていという相談を受けた。そこで思いきって支障木を伐採してみたら、建物がくっきりと浮かびあがり、少しずつ庭園にたいするイメージも固まってきた。」森蘊『庭ひとすじ』学生者1973(194頁)

森蘊庭園研究室(旧宅)(非公開)

究極の住宅庭園とは「自然の中の生活を楽しむための青空と、緑の芝生とに包まれた戸外室」と『美しい庭園―鑑賞と造庭』(1950)の中で森蘊が説明している。その理想像に最も近いのは、森本人の旧宅庭園なのではないだろうか(現・森蘊庭園研究室)。
森蘊の住宅は近鉄橿原線の西ノ京駅の東に位置する。建物は森の息子史夫による設計であり、庭園と合わせて親子の合作となる。住宅は木造の平屋で、敷地の北に配置する。庭園は南の座敷前に広がる明るい平庭である。
旧宅と庭園はいつにできたかは正確にわからないが、昭和42年10月29日に森が庭師の小山潔を相手に、庭園に手を加えているということから、度々改造した可能性が高いと思われる。いずれにせよ、現存する庭園は非常にシンプルな構成である。座敷の前に大きな靴脱石を中心に、小ぶりの飛石が東西に分かれて、それぞれの出入り口へと続く。座敷前に自然石を利用しているのに対して、西側の玄関先から庭の奥に続く飛石は切石である。規模は小さいが、桂離宮の新御殿前の芝生広場と飛石の配置を彷彿させる構図である。
南側には長方形の花壇を配置する。当初、花壇の中にはどのような植物が植えられたかは定かでないが、現在はシュウメイギクやスイセン、ツバキ等が自生している。現在、花壇の南東の隅に高さ1mほどの石碑があるが、それは森蘊の没後に記念として据えられたものであるという。
敷地は生垣で囲い、所々に枝を広げるモミジも点在している。かつて、この生垣は低く剪定され、縁側から西を望むと薬師寺の東塔を前景に高円山まで見渡せたというが、現在は周辺に建った住宅を隠すように高くしている。開放感を失った代わりに、緑に囲まれた親密な空間になった。
現在の主景になるのは、座敷の真正面に立つエンジュの木である。森は特に記録を残していないが、エンジュの木は古代に中国から日本に導入され、平城京で街路樹として利用されていた樹木であったから植えたとも考えられる。
自宅の庭で森は、石組や際立つようなデザイン等を極力控え、自己主張をしない空間を創造した。人工の力より、季節の移ろいを感じさせるような庭。まさに「無駄のない」構成で「自然の中の生活を楽しむ」ための庭である。

森蘊の孫、森有史の一言

「いつもこの庭で兄とサッカーをしました。きっと祖父が常日頃丁寧に手入れをしていたのだと思いますが、そこら中にボールをぶつけても何も諭されることなく、今思い返してみると贅沢な球技場だったと思います。祖父は、祖母と共にその縁側に座り、私達を見守ってくれていました。ある時私の蹴ったボールは祖父の顔面に直撃し、一瞬祖母が焦ったような顔をしていたのも覚えています。その後に何事も無かったかのように微笑んでいた祖父の顔も。小さかった私にとっては、「素敵なお庭のある家に住んでる優しいおじいちゃん」でした。」(報告書より)